蕨宿→浦和宿(三/六十九)約5.5km

蕨の駅からスタート。前回日が暮れてよく見えなかった和楽備神社(蕨城跡)から。双子ちゃんのお宮参りに出会いました。やはり前回閉館後だった蕨市立歴史民俗資料館分館へ。日本の昔ながらの素朴な庭がある家屋で、なんだか遠い昔のおばあちゃんちを思い出しました。三学院は相変わらずよく手入れが行き届いた庭が美しく、ちょうど大きな藤の盛り。昔はもっともっと花房も長くて見事だったんだけどなあ、とスタッフのおじさんが話してくれました。

すごく残念だったのが、清水の舞台から飛び降りるつもりで、そして「ご褒美」の理由をいろいろひねり出して、昼食にいただくつもりだった江戸時代からのうなぎ屋さんが定休日だったこと!

毎回思うのは、電線・電柱がじゃまなこと。たくさんの歴史的な建物などが簡単に壊されてしまっていること。戦争も高度成長もあったししかたないよな、と思いつつ。それでも丹念にたどると、街道の「跡」はわずかでも残り、街道として機能していた当時の人の行き来を想像することができます。今まで「国道」としか意識してこなかった道の、いろんな側面を知ることができます。

このへんには、「焼き米」を食べさせてくれる立場茶屋があったそうです。

調神社は浦和が宿場町として栄えるより前から人々の信仰を集めていた由緒ある神社。「つきじんじゃ」と呼ぶのにちなんで兎を使徒とするそうです。そして「ツキ」ももたらしてくれるとか。

浦和宿は江戸に近く蕨からも近いので宿は少なく、市場として発展したそう。近隣はさつまいもの「紅赤」発祥の地でもあります。そして、蕨宿と同じくここも鰻屋さんが軒を連ねたそう。江戸に向かう人はいよいよ江戸に入る前の景気づけに、江戸を後にした人は、ここから先は鰻が食べられるところがない「食い納め」に。どれだけ鰻が好きなんでしょう。私も好きだけど。全街道を踏破した暁には「ご褒美」に。

廓信寺_gosou
gosou

与野駅の構内には、かつて駅前にあった半里塚の欅の幹が展示されています。古木となってがんばっていたけれど、回復の見込みがない腐食がみつかって、ここでひっそり現代の人の行き来を眺めています。次回はここから。最後のほうの写真は、一緒に歩いたごそう鉄太郎さんのお写真を使わせていただきました。