浦和宿→大宮宿(四/六十九)日本橋から29.2km(行程5.0km)
さいたま新都心の駅周辺は、その名の通り近未来の様相。このあたりには刑場があったり、女郎の悲恋の物語があるお女郎地蔵、火の玉不動、用水路などがあったけれど、なかなかその面影をたどることは難しいです。
少し北上すると、武蔵国一宮「氷川神社」の一之鳥居が見えてきます。中山道からは少しはずれるけどまよわずこっちへ。おせんべい屋さんがいい香りをまき散らしています。
浅田次郎さんの『一路』で、危険を感じた殿様が一目散に走ったという長い参道を、その姿を思い浮かべながら進みます。恥ずかしながらその小説を読むまで、そして実際ここに来るまで、大宮にそのような大社があるとは知りませんでした。いや、大宮と中山道も結び付いていなかったかも。なるほど、大きな宮があるから大宮かあ。大宮いいじゃん。
大宮はかつては宿場ではなく馬継ぎ場だったとのこと。そして中山道はかつてこの参道だったけれど、神様に参らず入り口でそれていくのが神様に失礼だから西にそらしたということでした。
たくさんの人がお参りをしていて、小さな摂社、末社(境内社)がたくさんあって、季節のお花が品よく飾ってあって素敵な神社でした。
さてさて参道を一之鳥居まで戻って中山道を歩き直します。途中さいたま市立博物館では、宿場としての大宮が面白く学習できます。
ちょこまかですが、街角に「跡」が見られます。大宮の人々を自らの命と引き換えに救った勘定奉行を偲んだ安藤橋の碑、塩断ちをして父の病気快癒を願った娘の言い伝えがある塩地蔵、刑場に向かう罪人を見送る家族がここで別れたという涙橋。
大宮駅前の本陣跡などはいずれもビルに変わってしまっていました。
東光寺は曹洞宗の古刹。よく手入れの行き届いた、古さと新しさが混在した、でもおごそかなお寺でした。お葬式か法事かが催されていて、遺影がスライドショーになっていました。
かつて旅の目印とされた椎の木が2本とも青々と葉を茂らせているのを見て、ココスの隅に、かろうじて安政7年の道しるべが残されていることにほっとして、本日はここまで。今回も同行のごそう鉄太郎さんにお写真のご提供をいただきました。